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都内を自転車で走り回った時のこと

写真今となっては、誰と一緒だったかも覚えてない。

どのあたりを走ったのか、何をしていたのかも、記憶はおぼろげだ。ブログがあったら、きっとすぐ記事にしてアップしていたのにな。

残念!

たぶん、「大喪の礼」の前夜じゃなかったかな。
ネットで検索すると、平成元年2月24日となっている。多分この頃だと思う。

追記:平成元年2月は、まだ高校3年生だったことが判明。ってことはその後だ。なんのイベントだったんだろ?(皇室関連ではあった気がする)

当時、儀式が執り行われる首都東京は、ものすごい厳戒態勢が敷かれていた。なんであんなに厳しいことになっていたんだろう?という気もするのだが、その当時の状況は、警察白書を見ると載っている。


警備情勢では、昭和天皇の崩御に伴い執り行われた大喪の礼に対し、極左暴力集団は、「大喪の礼爆砕」を主張して爆弾事件等を引き起こしたほか、右翼は、日本共産党の天皇批判活動等をめぐって暴力事件を引き起こした。大喪の礼警備は、過去最大規模のものとなったが、全国警察が総力を挙げて推進した結果、無事に終了した。極左暴力集団は、成田闘争重視の路線から皇室闘争を中心に据える路線に転換し、「三番町宮内庁宿舎自動車爆弾事件」等の「テロ、ゲリラ」を引き起こした。

過去最大規模の警備の策のひとつとして、
都内中心部への車の乗り入れの制限があった。

「へー、前日から車で都心に入れなくなるんだ」

大学で所属していたサークルの部室で、こんな会話が交わされたのだろう。

「自転車ならいいのかな?」

誰が言いだしっぺだったかはよくわからない。
なぜか、大喪の礼の前夜、厳戒態勢で車の乗り入れが制限されている都心を、サイクリングしようということになった。車が走っていないのなら、青山通りの真ん中だって、自転車でかっとばせるはずだと。

今ならわかる。


めっちゃ、迷惑だったということが。


でも当時は、学生のノリ。なんだかそれは最高のアイディアな気がして盛り上がり、当時自分は大学1年生だったと思うが、先輩達のそんな企画にくっついていった。結構寒い時期だった。渋谷だったか池袋だったか、どっかそのあたりのレンタサイクル屋さんで自転車を借りて、都心に向かって走り始めた。

気持ちよく疾走!できたのは確かだが、いたるところで警官に止められて、職質。ボディチェック。そりゃまあそうだよな・・・。過激派って顔の人はいなかったと思うけど、その行為自体は、あんま常識的ではなかったから。ポケットがいっぱいのジャンバーを着て、カメラアクセサリーをたくさん突っ込んでいた同行者の一人は、結構念入りにチェックされていた。

それでも、車が全く走っていない都内の道は、忘れられないほどに気持ちよかった。

途中で道がわからなくなっても大丈夫。
なにせ、いたるところ警官&機動隊だらけだから。

・・・というのは間違いで、話しかけると、ほとんどが他県の警官・機動隊からの派遣。言葉も思い切り方言。

それでも、楽しく話をしてくれた機動隊の人もいた。
赤坂近くだったと思う。関西弁の人だった。

日本中から、警官や機動隊が集まっているという話をした後、「でもこのあたりを担当しているうちんとこが一番強力や」という話になった。

「ニシナリ」で実戦経験してるから・・・確かそんなことを言っていた。
当時は大阪の西成区がどんな場所なのかもよく知らなかったし、暴動のことも知らなかった。単に「きっとすごい治安の悪い場所なんだろう」と思った。

これ以上は中心部に近づかないほうが安全・・・と言われ、その後どういう経緯だったかは忘れたが、「海まで行って、朝日を拝もう」ということになったような気がするが、結局、海まで行ったのかどうか、覚えていない。

白んでゆく空を見ながら、路線バスとパトカーくらいしか走っていない通りを、再び走りながら自転車を借りた場所まで走っていった。

普段は地下鉄で移動している都内が、あまりに狭いことにびっくり。「こことここって、実は接しているんだ!」など新鮮な驚きもあった。

いつかまた、夜の東京を自転車で走り回ってみたい。

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