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南三陸町で語り部バスに参加~三年半ぶりに訪れる雄勝&石巻

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南三陸ホテル観洋では、チェックインの時に日の出時間を教えられる。なんでだろうと思ったら全部屋が東の海を向いて作られているため、部屋から真正面の海上に太陽が登るためだった。

当日予約した私の部屋の縦一列だけがやや北向きだが、それでも水平線からまばゆい太陽が顔をだすのを見ることができた。大浴場・露天風呂からも同様の風景を見ることができる。

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そして8時45分にホテル前を出発する語り部バスに参加。

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500円で約60分のバスツアーだ。
宿泊者はだれでも参加ができる。

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まずバスは、ホテルから45号線を南下したところ、志津川湾の南西の角にある戸倉地区へ。

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少し高台になった緑の丘があるが、ここには戸倉小学校があった。
この戸倉小学校の話は、報道でも何度か取り上げられたことがあるので、知ってる人もいるだろう。

学校自体が少し高台にあることもあり、津波時の避難場所はこの3階建ての校舎の屋上ということになっていた。3月9日少し大きな地震が来た際、先生方が話し合いを行い、本当にここでいいのだろうかと議論をしたという。そして校舎屋上ではなく、そこから道を挟んで山側の高台にある神社にしようと決まったという。

3月10日、その想定で避難訓練を行った。

そして3月11日、津波は3階建て校舎の屋上から5メートルの高さにまで達し、この一帯の集落すべてを飲み込み破壊した。高台にある神社と数軒の家だけを除き、今も何もない。

もし3月9日の避難場所変更がなかったら・・・
石巻の大川小学校同様、生徒の大半は助からなかった可能性がある。

海に近いこともあり、避難訓練は毎月のように行われていたという。危機意識がどれだけ大切かということと同時に、運命の分かれ道なんていうのはそれほど大きなものではないことを考えさせられる。

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その戸倉地区でも今、地盤のかさ上げが進んでいる。
3階建ての校舎屋上すら飲み込んでしまう高い波を想定したら、これだけかさ上げしてもまだ安全な土地ではないと思うのだが、南三陸町は宅地造成できる場所が非常に限られており、他では許可されていないそうだが、ここでは津波が到達した小学校の校庭にすら、仮設住宅が作られている。他に土地がないのだと語り部の方は話していた。

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小学生たちや近隣住民が避難した高台の神社がある一角。
震災後は完全に孤立し、小学生たちも高学年の子は薪にする木を拾い集め、寒さが厳しい中、みなで協力しあって生き延びたのだという。

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その後、さらに高台にあるが津波が一階を襲った中学校、病院の跡地、3階まで破壊された結婚式などに使われた建物をまわった後、防災対策庁舎へ。

町長をはじめここで津波への対応をし防災無線を流して避難を呼びかけていた職員たちは屋上に逃げたが、アンテナの一部を除き津波に飲み込まれた。助かった職員は流されないよう、非常階段の一番上の踊り場の柵に必死にしがみついていたという。

秋に結婚を控えていた24歳の女性が亡くなったのもここだ。

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既に多くの被災建物は解体され、道や橋の修復も進み、現在は地盤のかさ上げ工事が進み、街の風景は震災後とも大きく様変わりし始めている。そしてどこにいても海と山裾野を見渡せる広い野原と土の山になっている。

知らずにいたら、もともと何もない場所なのかと思ってしまってもおかしくない。

「こうして車窓から見ると皆さん、見渡す限りの草っぱらでしょう。でもね、ここ街だったんです。商業施設も密集して家もたくさん建ってて」

語り部バス車内では、大判に引き伸ばされラミネート加工された写真が何枚もまわされた。建物がびっしり立ち並び車も多数往来する賑やかな在りし日の写真だったり、津波の瞬間だったり、その直後だったり。

バスで移動し、外に広がる一面緑の風景と重ねあわせながら写真を見るというのはこれまであまりない体験だった。「これがもし自分の街だったらどうだろう」など想像する。

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少し重たい気持ちを抱えたまま、10時にホテルをチェックアウトし、再び南下ツーリング再開。

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国道45号線を離れ海沿いを走る398号線を進み、、まず向かったのは神割崎キャンプ場

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朝ごはんも食べそびれていたので、一角にあるレストランに入った。

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なんともおしゃれな場所でびっくり。
テラスが開放されており、松林のすぐ向こうが海。波の音を聞きながらバターたっぷり使ったチャーハンをいただいた。これで元気回復!

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その後も、山道を走ったかと思うと突如静かな入江の湾が見えたりの繰り返し。水の色は深く、船が海面で静止しており、養殖のうきもたくさん浮かんでいた。

そして遂に北上川の下流に。

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津波の時に破壊された道は今新たに作られている途中で、一時的に幅広い道になっている部分もたくさんあった。

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最終的にかなり幅広い堤防になるのかもしれない。

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河口から4キロほどの新北上大橋を越えると、そこに大川小がある。

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災害はたくさんの悲しい別れをもたらすが、まだ将来がたくさんあった子どもたちが両親より先に世を去ってしまうのは最大の悲劇だろう。津波で被害にあった場所はたくさんあるが、大川小だけは他とはまったく違う雰囲気がある、あそこだけは別と、訪れたことある何人かの人からそう聞いたことがある。

実際に本当にそうで、手を合わせに立ち寄ったものの、近づいてカメラを構えるなんていうことはしてはいけない場所に思えた。花がたくさん捧げられた場所の近くにしゃがみ、何をするでもなくずっと話をしている人たちの姿もあった。

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そこから雄勝町へ。
2011年にボランティア活動で石巻市内から炊き出し料理を運んだところだ。

●復興支援ボランティア体験@石巻(14)雄勝町の被災風景

その頃まだ女川町を経由する道は復旧していない場所も多かったので、石巻市内から北上川の河川敷に鉄板を敷き並べて仮設した道の上を走った。

当時は位置関係もよくわからず、電柱が折れまくり建物の上にバスが乗り上げてしまっているような風景にただただ衝撃を受けた。

ここも、家の土台がまだ残るところに草が生い茂る静かな風景になっており、ただ通り過ぎたらここに町があったとはわからないような状況だった。

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雄勝湾は本当に美しかった。

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そこから、くねくねの山道を下りおり、サンマでも有名な女川町へ。
ちょっと睡魔にも襲われ始めたので、何かお店見つけて入ろうかとも思ったんだけど・・・

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初めて足を踏み入れた女川町は、そんな場所では全くなかった。
ここも巨大な工事現場。

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土砂を運び込んでかさ上げ・造成しているエリアも多いが、新しい建物を作っているところもかなり見かけた。

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そして復興公営住宅らしい集合団地も。

女川町を抜け海沿いの国道を走るとしばらくして大都市・石巻市の姿が遠目に見えてきた。訪れるのは2011年12月以来だ。今回は石ノ森萬画館にも入ることができた。

以下、市内で撮影した写真を並べて貼り付けておく。

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9月12日のツーリングレポートは以上。
13日と14日はツーリング中断し、石巻から気仙沼にかけて開催された「ツール・ド・東北」にボランティアスタッフとして参加したのだが、そのレポートはまたあらためて書きたい。

今日はこの後、石巻市をでて福島県・南相馬市を目指す予定。

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